万葉歌人「志貴皇子(しきのみこ)」を祀る奈良坂の氏神さん
いわばしる 垂水のうえの さわらびの 萌えいづる 春になりにけるかも(万葉集巻八 志貴皇子)
むささびは こぬれ求むと あしきひの 山のさつおに 会いにいけるかも(万葉集巻三 志貴皇子)
万葉歌人としても有名な「志貴皇子(しきのみこ)」を祀る「奈良豆比古神社(延喜式内社=延喜式神名帳に「添上郡奈良豆比古神社」と記されている)」は、平城山の東の端に位置し、奈良市街地から約4㎞北、奈良市の北端で京都府との県境に近く、「旧奈良〜京街道」に面した処にあり、「奈良坂の氏神さん」として土地の人に敬愛されている。
祭神は、「施貴皇子(田原天皇)」・「奈良豆比古神(産土神)」・「施貴皇子の子、春日王」とされているが、時代の流れの中で、春日神社の「第四座(姫神)」と「若宮」もお祀りされた記録もあり「奈良神社」・「奈良坂春日社」ともいわれていた。
大きな石の鳥居の手前には狛犬、鳥居をくぐり右手に鏡池を見ながら、古い灯籠をわけて石畳が拝殿へと続いている。
奈良豆比古神社 三神殿
正面の一段高い柵内に春日造りの三神殿がある。
祭神は中央に「産土の神・平城津比古神(奈良豆比古神)」、右側に「志貴皇子(田原天皇・春日宮天皇)」、左側に「春日王(志貴皇子の子)」を祀る。
20年毎の「御造替(ごぞうたい)」を戦時中も欠かすことなく氏子によって行われている。
能楽の源流「猿楽」がこの神社で発達
「光仁天皇宝亀2年(771年)正月20日、施基(志貴、同)皇子を奈良山春日離宮に祀る。のちに田原天皇とおくり名をたてまつる。」
志貴皇子は万葉歌人としても名高く、天智天皇の子であり、光仁天皇の父である。
天武系でしめられた奈良朝末期、称徳女帝に子がないところから、天智計の光仁が即位、父志貴も大きくよみがえった。「田原玄翁」とも呼ばれるが、「春日宮天皇」として、その陵は高円山裏の「矢田原」にある。
奈良豆比古神社が古くから「奈良坂春日社」と称された由縁であり、いわゆる「春日大社」とは全く異なるものであるとの説もある。
春日王は志貴の第二皇子であり、桓武に続く平城天皇とゆかり深いが、「歌舞音曲の司神」とされた同社の祭神にふさわしいものがある。
春日王には二人の皇子「浄人王(きよひとおう)・弓削首夙人(ゆげのおびとしゅくうど)」と「安貴王(あきおう・秋王)」がいた。
「浄人王」は散楽俳優(さんがくわざおぎ)を好み、その芸術を以て明神に祈り、父 春日王の病を治した。
「すなわち世に言う「猿楽・芸能の翁・三番叟」等の面は浄人に起こると。当郷の人芸能をなすは、この余風なり・・」
「奈良坊目拙解」奈良神社の条の一節だが、能楽の源流である「猿楽」がこの神社で発達したことは確かである。
奈良県指定無形文化財(1954年)及び、国指定の重要無形民俗文化財(2000年)である。
同神社に伝わる二十面のうち、特に「ベシミ面」は室町初期(応永20年(1413年))の銘を持つ最古のものである。当社は「司神」として歌舞音曲の役者たちが、明治維新までこの神社に詣でて許しを得たものであったと伝えられている。
翁舞
- 昭和29年(1954)3月2日 奈良県指定文化財
- 昭和47年(1972)8月5日 国の無形民俗文化財記録選定
奈良豆比古神社で毎年10月8日の宵宮祭りに古式な翁舞が、町内「翁講中」の人たちによって奉納される。
児乃手柏(このてかしわ)
境内には、巨大な「児乃手柏(このてかしわ)(万葉樹)」の切り株がある。惜しくも昭和27年(1952年)に枯れたが、左横には昭和20年代に植えられた二世の木が成長している。
天然記念物 樟の巨樹
さらに本殿裏の境内地にひときわ目立つ「樟」の巨樹は、奈良県の天然記念物で、根元幹回り約12.8m、樹高約30mにも達し、まさに古式蒼然として、1200年前「田原天皇の子、田原太子(春日王)が療養のため、大木茂る奈良山の一社に隠居さる」との伝説を裏付けている。