奉行所は町民の守らねばならない事柄を、触れ書の回達のほかに、木札にも書き、各所に掲示板をつくって建てた。これを「御高札場」といった。天和二年に出されたものがあるが、内容はそれぞれの札の名で示されており、場所によっては異なった項目を含むものがある。
例えば、「忠孝札(ちゅうこうふだ)」には忠孝の心得の外に博奕(ばくえき)や喧嘩口論の禁止の項を、「毒薬札」には、毒薬・にせ薬の売買禁止のほかに、ニセ金銀や、新作のあやしい書物の販売禁止、寛永新銭の用法あるいは買い占め、職人が中間と組むことの禁止令を含めている。このようにして町民は触れ書や高札によって、厳しく日常生活が規制され、奉行所の権力の中に統制されたのであった。
「奈良市史(通史・三)」に奈良町の高札場を取り上げている。高札場は奈良町の中心「橋本町」と、町の主な出入口である「奈良坂村・不空院辻(ふくういんつじ)・中辻町・柳町・下三条口」と奈良回り八カ村の合わせて14箇所にあった(下表参照)。
奈良坂の高札場については「大和名所図会・巻二」に描かれている。奈良豆比古神社境内の東で、京都~奈良街道に面して東向きに立っていた。奈良豆比古神社境内の東側に現在復元された高札場は、「大和名所図会・巻二」に描かれた下図に従って忠実に復元(上の写真は2023年撮影)したもの。
①忠孝札
②「毒薬札」
③人売
④捨馬
⑤とたん(米相場)(大胆という意味あり)
⑥切支丹
⑦捨て子