奈良阪町

地名(小字)伝来

奈良阪町の町域は広い。東は緑が丘浄水場から西はJR関西線「平城山駅」界隈に至り、南は鴻の池、旧ドリームランドの一部を含めた周辺から北は奈良・京都府との境界に至っている。

「大和町村誌集・巻一」の明治15年(1882)頃の奈良阪町地内面積は、東西・37町(4.07㎞)南北・13町30間(1.484㎞)で田・畑・宅地・山地・藪地を合わせた税地の総面積は366町9反14歩(約364ha)となっている。

また町地内には50余りもの地名(小字)がある。

今も残る地名(小字名)

東高座(こうざ)・西高座・舞台・狼谷・毘沙門堂(びしゃもんどう)・沢の川・東谷・城山(じやま)・北垣内(きたのかいと)・花谷・奥の垣内・東垣内・中垣内・吹越(ふこせ)・平野・文殊山・鞠蹴(まりけり)・水亀谷・山ノ上・関屋・燈明畑・丸山・勝風谷(しょうぶだに)・コウハネ(黄金畑)・嵜畑(さきはた)・源六畑・ひげ山・湯の尻・函石(はこいし)・法事・養老ケ峯・弁財天山・西谷・大黒平・道幸坊・武蔵谷(むさしだに)・池の谷・又釜谷・大谷・池ノ谷・奈良坂(平野)

地名(字名)とその由来

函石(はこいし)

奈良阪町字函石は奈良豆比古神社の西方、元明天皇陵の南前付近一帯をいう。

「函石」とは、元明天皇陵の陵碑であり、中世に陵所が不明となっていたが、江戸幕府時代に現陵付近の土中から碑石が発見された。これは天皇の遺詔に「立刻字之碑」と記するものに該当し、俗に「函石」といわれた。

函石

この函石には次のように記されている。

大倭国添上郡平城之宮馭宇八洲、太上天皇之陵是其所也、養老五年歳次辛酉冬十二月癸酉 朔十三日乙酉 葬。

*馭宇(ぎょう・御宇と同)=天使の統治する世界

*八洲(はっしゅう)=日本の別名。本州・四国・九州・淡路・壱峻・対馬・隠岐・佐渡の八島。

*太上天皇(だいじょうてんのう)=位を譲った天使、元明天皇を指す。

(参考・奈良市史考古編)

この函石は、高さ三尺許・広二尺許・厚一尺許で石材は瑪瑙である。

明治六年(1769)藤井貞幹がこれを調査して、元明天皇の陵碑であることを考証した。一時奈良豆比古神社境内に立てられていたが、文久三年(1863)十月修陵の際に復してこれを陵内に納め、明治三十二年(1899)模造の碑を作り、今 陵上の屋形のうちに建ててある。こうして元明天皇陵は幕末時代に現地に治定された。

なお、この時奈良豆比古神社に建てられた「元明天皇陵墓御碑旧址」と刻られた1m程度の自然石が、今も参道北側の境内に残っている。

元明天皇陵墓御碑旧址

燈明畑(とうみょうばた)と湯の尻(ゆのしり)

奈良阪町「字燈明畑・字湯の尻」は奈良豆比古神社の裏・西南方にある。

奈良豆比古神社の縁起によると、祭神春日王が白癩病(はくらいびょう)を患って当神社にお籠りし、沐浴をして養生されていた。

その間、長男・浄人王(きよひとおう)と、次男安貴王(あきおう)が共に孝養を尽くされて、父春日王の病気はめでたく平癒した。

その時、春日王が沐浴された湯を捨てるとき、病気が他に伝染しないようにとの配慮から、夜燈明を灯して祈祷し、湯を清めてから捨てられた。

この祈祷された場所を「奈良阪町字燈明畑」としてその名は今も残っている。

また、湯を捨てた処を「奈良阪町字湯の尻」と言って「湯の末路」を意味する地名が、元明天皇陵の南側一帯に残っている。西久保町から黒髪稲荷に通じる道に合流する坂道を人々は「湯の尻坂」といって、この方面への近道でもあり主要な道であった。

字 湯の尻坂(昭和40年頃)

さて、当時なぜこの場所へ湯を捨てたのか?である。

町地内この付近には「字南 勝風谷」から北の谷「湯の尻」へ捨てた湯は、「出会川(であいがわ)」〜「鹿川」を経て木津川へ流れるから、他国「山城の国」へ流れることで、当時は罪の意識も薄らいだのであろう。

城山(じやま)と舞台(ぶたい)

京都から奈良への入り口、県境付近に、「奈良阪町字城山」・「同舞台」の地名が残っている。その由来については関連しているので、併せて紹介する。

康和(こうわ)四年(1102)〜五年(1103)、興福寺と東大寺の争いがあり、東大寺の衆徒が興福寺の狼籍を訴え入京し、興福寺がこの入京を強訴した。

承安(じょうあん)三年(1173)平重盛が興福寺僧徒の入京を防ぐ。

治承(じしょう)四年(1180)平重衡(平清盛の五男)の南都焼き討ち。寿永元年(1182)諸国の追討使を停どめる。南都焼き討ち以降、興福寺や東大寺の復興工事や竣工供養のため工人や芸人、遊民が蝟集した。この丘陵に屋城を建てて、行人を見張り検問をしたことから、この地を「城山」と言われるようになった。

また、芸人に変装した追討使の出入りを防ぐため、ここに「舞台」を設けて「芸」をさせて確認検閲した場所で、この地を「舞台」と名付けた、と今に伝えられている。

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