「奈良坂」は平安京から南都(なら)へ至る山越え、即ち「坂越え」から由来
奈良坂という地名は「平城に遷都」の前後に「平」の語源ができ、万葉集にも「なら・ならやま」の地名が見えることから、当地(奈良坂)は奈良山に位置し、平安京から南都(なら)へ至る山越え即ち、坂越えから「坂」があてられて「奈良坂」の地名に至ったと考えられる。
那羅・平・平城・乃楽・儺羅・那良・楢・寧楽・諾楽・寧・奈羅・・・「なら」と読む
「なら」は「那羅・平・平城・乃楽・儺羅・那良・楢・寧楽・諾楽・寧・奈羅」等とも書く。奈良盆地に位置する、奈富・椎山・雍良、はナラの用字が変化した地名で、その語源は草木を踏み(平)ならした所を意味し、緩傾斜地を表現する語か、(崇神紀十年九月壬子条 県史十四)また、樹名「楢」にちなむとする説もある(地名辞典)。
「平城」を「なら」と読まれる由来
平城もナラと詠み(万葉集)、中国の北魏(刻銘、戦国七雄の一、南北朝時代の北朝の最初の国)を興した太祖道武帝(拓跋珪(たくばつけい)」が施行した畿内制の首都「平城」(398年・今の山西省大同)に符合し、「平」に「都城」を意味する「城」を付加したとされる(県史十四)
一方「平城」は支配者の治国願望を示したもので、地名ではないとする説もある。(『続日本紀』和銅元年二月戌寅条参考)
なお『平城村史』には、次のようにある。
平城京は「ならの都」を漢風に表記したものである。平城は奈良・寧楽と同じく「なら」の漢字表記であり「平城」はとくに公用されたという点に特徴がある。
平城という表記は「平」と一文字で記すのと同じことで、一字名よりは二字名が喜ばられる国情でもあって「城(き)」の文字に都城の意味も酌量されるので、平城遷都(710年)の前後にこの二文字の表記が始まったといえる。
また「奈良」という表記も古い。しかも「奈」と「良」はともに優しい文字であり、平仮名の「な」と「ら」の母体である。
平安朝国風文化の発達時代「なら」の地名表記は「奈良」に統一されたといえよう。いわば平城は「なら」の真名(男文字)、奈良は仮名(女文字)の表記であった。ところで平城京は「なら」という地に建設された都城であり、すでに「なら」という地名の成立が偲べる。
『日本書記』よりひも解く「なら」の語源
天皇の従弟 武埴安彦(たけはにやすひこ)と吾田媛(あたひめ)夫婦の反乱
なぜ「なら」と呼ばれたか。
地名起源伝説では『日本書記』には三輪山を望む磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)に宮居せられた崇神天皇の即位十年九月、四道将軍の派遣があるが、そのうち北陸道将軍として出発した大彦命(おおひこのみこと)は和瓊坂(わにさか)(現 天理市和爾町らしい)のほとりを通過した際、一少女の歌に奇異を感じた。
少女は歌意を問えども答えず、そこで瑞籬宮(みずかきのみや)に立ち帰り奇異を奏上した。
この神託は天皇の御伯母の倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)によって解明せられ、天皇の従弟で河内方面(大阪・住吉の辺り想定)に住まわれる武埴安彦(たけはにやすひこ)、吾田媛(あたひめ)夫婦の反乱が発覚する。
間もなく夫は山背(やましろ)(京都府山城)、婦は大坂(二上山を越える穴虫か竹の内街道か)から帝都に向かって進軍する。
これに対し、まず皇軍の五十狭芹彦命(いそさせりひこのみこと)が大阪で吾田媛(あたひめ)の軍を迎え撃って破るが、山背へは大彦命と和爾臣の遠祖の彦国葺命(ひこくにぶく)とが進撃を命ぜられた。
両将軍は、忌瓮(いわいべ・祭祀に用いる神聖な器)を以て和爾の武餌坂(たけすきさか)の上に鎮座う。則ち精兵を率いて進みて那羅山(ならやま)に上りて軍す。
時に官軍屯衆て聚て草木を踏みならす。
因りて其の山を号けて那羅山と云う。また那羅山を避りて進みて輪韓河(わからがわ)に至りて武埴安彦(たけはにやすひこ)と河を挟みて屯みて各相挑む。
故れ時人改めて其の河を号けて挑河(いどみがわ)と云う。今、泉河(いずみがわ)と謂ふは訛(よこなまれる)なり。
《原漢文 岩波日本古典文学大系本》
と記されているように、輪韓河(木津川)畔に進撃して武埴安彦と戦いこれを誅する。ここに合戦に先立ち官軍が那羅山で勢揃いをし、そして木津川畔に進出したのが知られる。この那羅山がまさに平城山である。官軍が群集して踏み平(なら)したことに因んだ「なら」の語源を「平」と説明するのにふさわしい伝説である。
平群鮪臣(へぐりのしびおみ)を想う 影媛の道中歌
『日本書記』に掲げる武烈天皇の恋敵として「乃楽山」に誅戮(ちゅうりく・罪ある者を殺すこと)された平群鮪臣(へぐりのしびおみ)を想う影媛の道中歌に、
「石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に大宅過ぎ 春日の春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ 玉筍には 飯さへ盛り 玉碗に 水さへ盛り 泣き沾(そほ)ち行くも 影媛あはれ」とある。
実はこの道中歌は、布留ー高橋ー大宅ー春日ー小佐保ー乃楽山の古代交通路を示す資料として貴重なものであって、まさに上街道(奈良〜天理線)に合致する。また先の「崇神紀」の大彦命の進軍も和爾を経ているので、この上街道だったのがわかる(和爾は高橋の近くである)。
かくして那羅山・乃楽山と表記される「ならやま」は平城山と記すのも同じことであるが、ここで上街道を経て「なら山」に至るとすれば奈良坂といわれ、式内社の「奈良豆比古神社」も鎮座する京都への東街道沿いに「なら山」が存在したとしてもよさそうである。平城地方よりはるか東方をいい、あるいは歌姫の辺りではなくなる。
影媛の道中歌に、佐保(法連町)から、なら山に至るというのだがからこれは現在の奈良阪あるいはその西方の近くに「なら山」をもとめたくなる。
将軍吹負(しょうぐんふげい)乃楽山の上に屯む 大野君果安(おおのきみはたやす)と乃楽山に戦う
さらに「なら山」を示す資料で『日本書記』の「天武紀」の開港は天武天皇(大海人皇子)が弘文天皇(大友皇子)と皇位を争う「壬申の乱」の記事だが、その元年七月の条に「三日壬辰に、将軍吹負(しょうぐんふげい)乃楽山の上に屯む」(中略)「四日癸巳に、将軍吹負、近江の将、大野君果安(おおのきみはたやす)と乃楽山に戦う。果安が為に敗られて軍卒悉く走ぐ。将軍吹負、僅に身を脱るることを得つ。是に果安追いて八口に至りて上りて今日を視るに・・・」
大海人皇子軍の将軍、大伴吹負(おおとものふげい)は弱将で「なら山」に、近江の大友皇子軍の大野果安を迎撃して敗れ、飛鳥古京に逃げ還ったのである。すでに飛鳥から山背に至る南北幹線道路の歌姫越えの下ッ道(中街道)の開通が知られるので、この「なら山」は歌姫近くと考えられる。かくして、「なら山」は西は歌姫から東は奈良阪に至る、いわゆる佐保・佐紀丘陵一帯の山地を称したというのが妥当となる。しかし平城遷都のころ「なら」はいわゆる佐紀地方に擬古していた。
奈良坂は12世紀に現代の奈良坂の称を独占した
時代は移って南都奈良が発達したことにより、奈良の地名は東方に還った。奈良坂は12世紀に現代の奈良坂の称を独占し、平城の称は消えた。このように「なら」の中心地の二転三転が考えられる。
ただ、今の奈良阪から西方につづく一帯の丘陵は、奈良朝の初めから「奈保山」とか「佐保山」の称をもって呼ばれていたものである。
(参考・平城村史)